礼儀・Discord VCの退室・Scrapboxのブラケティング
久住哲.icon
礼儀・Discord VCの退室・Scrapboxのブラケティング(書きかけ)
基本的な方向
そう思います久住哲.icon
その後、書いてみたら、VCやScrapboxにはまだ礼儀が形成されていないという見方はあまり出てこなかった久住哲.icon
個人的・意思的なコミットメントと非人格的・慣習的な「コミットメント」の対立
事前準備
一般的な礼儀と新しいメディアにおける適切な振る舞いの型との違い
一般的に無言退室は失礼な行為にあたるが、VCは事情が違う。 相手の時間をしばらく無為に消費させるから失礼2.0にもなるか 居てほしい人が知らぬ間に居なくなったら失礼になるかもしれないけれど、そうじゃなければ失礼にならない感Mijinko_SD.icon
「気軽に参加してほしい」という前提を持つDiscordのVCでは、暗黙のルールを持たせるとコミュニティの発展を阻害してしまう 「気軽に参加する」ためのハードルが上がるから
一般的に他の人の文章に手を入れることは失礼(?)な行為にあたるが、Scrapboxは事情が違う。
事情と礼儀
まず事情(実在的なもの)がある
個々のメディアの構造
DiscordやLINEでは、文章を投稿すると、そのメッセージが前後の他のメッセージとは区切られて表示される
Scrapboxのエディタでスペースを押すと箇条書きのバレットが表示される
人間の心理
無視されると悲しい とか
はじめて会う人と話すのは緊張しがちだ とか
これ一般的か?久住哲.icon
責任逃れしたい とか
DiscordのVCの事情
相手の状況が分かりにくい
自分が話している相手は注意の8割をテレビ画面に向けているかもしれない
相手が話しているときには自分は話すことができない。逆も然り
Scrapboxだと
他の人が書いた文章にも手を入れられる状態にある
文章を誰が書いたのかがすぐには分からない見た目をしている
他の人の振る舞いの型(パターン)を見て、「お、それいいやん。真似しよ!」となって、振る舞いの型が広がっていったり
ある理由を明示的に提示して、この理由からすればこれからこういうふうにするのが妥当だと、理想的な振る舞いの仕方が模範として示されたり
良さげな振る舞い方をしていこう → 礼儀を守ろう
一般的な状況(個対個の通話や対人でのミーティング)では自由に無言退室すべきではない
礼儀
急にガチャ切りするのは失礼にあたる
VCであっても自由に無言退室すると「失礼」になる場合がある
慣習が発見されて言語化されるパターンと、個人や集団が「これは良い」と(勝手に)ルール化するパターンがある
個人的には、事情を考慮したほうがいいし、しない人は「愚か」だという強い言い方をしたい
いや、「愚か」という言葉を使うのは、あまりにリスキー。
一旦言いたいことを言う
Scrapboxに何か書いたなら、書いた文章の一部がブラケティングされることにも同意したに等しい久住哲.icon
あえて断言
行が挟まれてコメントが入ることにもcFQ2f7LRuLYP.icon
たしかに久住哲.icon
このことを正当化するために権威を持ち出すことができる。例えば、Create my pageのときに自動的に出てくる文章などを引用することによって久住哲.icon create my pageを経由せず個人ページができる場合、そのユーザーはその文章を見逃してしまう恐れがある?cFQ2f7LRuLYP.icon
「なぜブラケティングしたの?」「だってこれはScrapboxだぜ」
〈この場がScrapboxであるということ〉がブラケティングを正当化する(という考え)
「Scrapboxに何か書いたなら、書いた文章の一部がブラケティングされることにも同意したに等しいという理屈が分からない人は、Scrapboxのことが分かってない」と言いたくなる
だが、「Scrapboxの真理」は無い、あるいはまだ無いのでは?
ここにはScrapboxの概念についての戦い(?)がある 共同編集ツールに書き込んだことは自分の文章が編集されることに同意したとみなせるかどうか問題nishio.icon
事例があったな…
これだ
〈既に知識・概念がある人〉にはパワー(権力)がある(?) このような、〈2023/11久住哲.icon〉の考えかたには「暴力的」な側面がある久住哲.icon
上の例だと、「コミュニケーションの外側での力関係」は、Scrapboxについての知識や精通度合いや概念形成の熟成度の差によって規定される。非難の言葉としては「分かってない」が使われている。 就業規則を見せられないまま入社し、その後その規則に違反して罰せられる社員をイメージしたcFQ2f7LRuLYP.icon
「個人的コミットメント」とかは今かんがえた便宜的な造語であり、より適切な名称は既にあるだろう 「俺がいつ『俺の書いた文章はどれでも好きにブラケティングしていいぜ』って言った?」
もしも彼(架空の人物)がそう言ったのだとしたら、それを言われた人のブラケティングは正当化される。
そう言われた人は、「なんでブラケティングした?」と問われたとき、「だってあのときしていいって言っただろ?」と言い返す権利がある。
この権利は、2人のあいだでの個人的な関係である
一方で、「身に覚えのないコミットメント」にまつわる責任追及は、複数個人間での関係ではない
Scrapboxユーザーの多くのあいだでは慣習となっている 「Scrapboxに何か書いたなら、書いた文章の一部がブラケティングされることにも同意したに等しい」という意見を、久住哲.iconはScrapboxユーザーの世論と見なす ここで「世論」とは何か?という根本的な話が必要になる
すなわち、個人的コミットメントと世論的コミットメントがある
ここで知識と「愚かさ」の話と接続
「愚かさ」は疎かさだとしてみよう。すなわち、手抜かりがあるだとか不十分だとかいう意味だ。
今の例でいうと、例えば、次のように言えそう
「Scrapboxのことをちゃんと分かっていれば、自分が書いた文章が誰かにブラケティングされる可能性を考慮して当然じゃないか。もしそれを想定していないとしたら、その心構えには不十分なところがある。それは疎かだ」 同時に、「そこまでの想定をすべきだという義務を引き受けた覚えはない」という風に、個人的コミットメントを持ち出して、その非難に対して不当だと申し立てることができるようにみえる久住哲.icon すなわち、「私の想定は十分なものであり、疎かではない」という抗弁がありえる
見たことあるSummer498.icon
身に覚えのないことについて責任を問われたとき、それに身に覚えがないということだけによって、その責任追及を無効化できるわけではない
身に覚えのないコミットメントは、非人称的な一般的なコミットメントであり、慣習に即してその正当性が問われるものである。すなわち、個人の意思に即して正当性が問われるものではない。
慣習は、個人外的、非人格的現実である。(オルテガ・イ・ガセット『個人と社会』) だが、人と人とのやり取りは慣習のみによって行なわれるものではないので、その場で個人的かつ具体的なコミットメントを宣言することによって、慣習のみに即した責任追及に応じることができる。
例えば、ある言葉が差別用語だと知らなかった人が、その言葉を使ったことによって道徳的非難を受けたとき、「私はそれが差別用語だとは知らなかった。私には〜を差別する気持ちは一切ない」というふうに弁解・宣言することができる。 一方で、こういった弁解それ自体がまた慣習であり、非人称的な評価に晒されるものである
差別について「身に覚えのない」はずがないと判断されるケースがある この場合、「身に覚えがない」という言葉は単なる言い逃れ
ずるい人は、従来の慣習の水準では差別と認定されないラインで差別的振る舞いをしたりする
あるいは、その水準を高く設定し、その水準を周囲に対して主張する
個人的コミットメントの宣言はジョーカーの札ではない
個人的なやり取りが重要なのは、互いに異なる慣習のあいだでの調停はすぐには難しいから
複数の慣習のうちのどれが良いかを評価するためには事情を参照する必要がある
そもそも場所が変われば慣習も変わる。事情自体が違う場合もある。
個人的なコミットメントの取り交わしは、互いの慣習を互いに無効化しあうことができる
参照部: 一方で、こういった弁解それ自体がまた慣習であり、非人称的な評価に晒されるものである
慣習が常についてまわる。
個人的なコミットメントを絶対的な基礎に据えることはできない。
「個人的なコミットメントの取り交わし」というのは、話し相手がどういうつもりで言動したのかを互いに確認し合う作業であり、その場でしか効力を持たない個別的具体的な相互承認の作業。
そこでは「言い間違い」や「勘違い」や「失言」などについてもやり取りがなされる。
理由
ある人が「賢明」でありある人が「愚蒙」だという緊張を伴う対立関係の重要性が低くなっている という感覚がある
ある事情があるとき、人の振る舞い方は、その事情に即した適切な振る舞いとそれに即さない不適切な振る舞いとに分かれる
そもそも事情自体に気づかない人がいる
事情は知っているが、その事情と、その事情のもとでの自他の振る舞い方との間に重大な繋がりを見出さない人がいる
そういう人は、事情を考慮しない
だが……「事情」は仕組まれたもの、偏ったものでありえる
この点についてもう少し詳しく書く必要がある。
何を事情と見なすのが正しいかについて、意見が分かれる可能性がある
引用
1 慣習とは社会的圧力ゆえにわれわれが遂行する行動である。この圧力は、もしわれわれがそのようにふるまわないならばわれわれの周囲世界がわれわれに対して行使しようとする「精神的」もしくは物理的報復について、われわれの側から予測する圧力である。慣習とは機械的負担である。(オルテガ・イ・ガセット『個人と社会』)
脱線
仮に会社で部下に「彼氏/彼女はいるの?」と尋ねることがセクハラになるとした場合
このセクハラ水準は20年前よりも低いだろう。
以前よりも多くの発言がセクハラと見なされる。
人に彼氏/彼女いるって訊くことをハラスメントと見なすという慣習ができた上で、この慣習をルール化して、「会社で人に恋人がいるかどうか質問してはならない」という規則を作る といった場合もあるだろう。
だが、問題は残る
その慣習って、正しいのか?
それは「慣習」と言えるのか?(一過性のものではないか)
上司は「身に覚えがない」と弁解するかもしれない。